Cot / コー 2015
醸造方法
収穫後、カルボニックで仕込み、大きな開放桶で醸し樽の下から流れ出るフリーランジュースは500Lの新樽へ移し、
開放桶に残るブドウは20日後にデキュヴェしプレスフリーランジュースとアッサンブラージュし12ヶ月間熟成。
スーティラージュ:2016年9月16日/瓶詰め:2016年9月23日
SO2無添加 トータル:5mg/L未満
ワイン情報
気候に恵まれた15年に収穫後カルボニックで仕込み、大きな開放桶で醸し、樽の下から流れ出るフリーランジュースは500Lの新樽へ移し、20日後にデキュベしプレスしたものとアッサンブラージュし熟成しました。
わずかな気泡、黒紫のガーネット色、アメリカンチェリーやチェリーのシロップ漬けの香り、甘味たっぷりで美味しい果実味が拡がり、フレッシュな泡と高めの酸、いちごジャムの甘味も詰まっています。
生産者情報(インポータ・造り手・問屋情報)
女性醸造家新井順子 大地のエネルギーを最大限ブドウに込める
右も左も判らないまま2002年に始めたワイナリー。
立ち上げ当時から色んな事が変わりました。まずは農法についてです。
2002~ 2007年までの農法はビオディナミを実践しておりました。
その頃は常にフランス人の正社員がおり、カレンダー通りに行える環境だったからです。
2008年からは栽培責任者というポジションを私が自ら行い、Guyという季節労働者と共に畑を守り、醸造は以前と同じく私が責任者で行いました。
それに伴い100%ビオディナミ農法が維持できないので、無農薬だけになりました。
そして2014年までその状況が続きます。2015年からまたビオディナミの農法に戻しました。
それはMICHEL AUGE氏が2014年を最後に彼のワイン造りを引退し、2015年から正式にボワ・ルカの栽培担当者に就任したからです。
ビオディナミの私の師が、2015年から畑の管理をして下さるという素晴らしい環境が整い、私は畑の仕事の重要な部分を彼にお願いし、醸造は私が行うと言う理想的な形となりました。
畑の状況について説明します。
当初私はクロ・ロッシュ・ブランから8haの畑を買いました。
2haのソーヴィニヨンブラン(1947年植樹)、1haのカベルネフラン(1975年植樹)、3haのガメイ(1990年植樹)、以上合計6haの畑に加え2haの空き地です。
畑購入後、その他2haの空き地には以下のように植樹しました。
最初2006年にコーを1ha植えました。それはピノノワールの苗木が間に合わず、植える予定を変更せざるを得なかったからです。
さらに翌年2007年、残り1ha全ての土地に、ピノノワールを植えました。
しかしその年は大変雨が多く、雑草から子供達を守り切れず、念願のピノノワールが全て駄目になりました。
その辛い経験が私の考えを大きく変える事となりました。
なので2008年から私が自ら栽培責任者になったのです。
たった1人で畑を守っておりましたから、なかなか次の植樹の準備が出来ませんでしたが、やっと2010年、ダメになってしまったピノノワールの畑1haのうち0.5haの土地の2/3にピノノワール、残り1/3にシャルドネを植えました。
そして5年後の2015年にまだ手を付けられずにいた残りの0.5haの土地2/3にピノノワール、1/3にシャルドネを植えました。
ですので、今現在畑に空きはありません。
2015年からMICHELがスタッフとして入って下さったので、非常に畑の管理が楽になったおかげです。
ロワール地方ドメーヌ・デ・ボワ・ルカその間2010年に3haの畑(1haのカベルネフランと2haのガメイ)を、ボワルカの隣に畑をもつTHIERRYというビオワイン造りに新たに挑戦したい生産者に売りました。
なのでカベルネフランの最後のリリースは2009年のヴィンテージとなります。
そして2012年に2haのソーヴィニヨンブランと残りのガメイ1ha合計3haを2007年までボワ・ルカのスタッフだったノエラに売りました。
ですからソーヴィニヨンブランとガメイの最後のリリースは2011年です。
2012年からは私が自ら植樹した2haの畑だけになりました。
植樹から100%私の方法で畑を管理する事は私の夢の1つでした。
2012年に畑を売る事をその当時のコスモジュンのスタッフに言ったら、皆、悲しみました。
しかし私の意思は変わりませんでした。
何故なら2011年3月11日に東北・北関東の大震災があり、私の人生の価値観を大きく変える事となったからであります。
私だけでなく日本人皆が大きく影響されたのではないでしょうか?
私はそれからフランスから日本へと気持ちが移り、チャリティー活動を行いました。
そして2012年に全て整理して2013年、全く違う分野の世界に挑戦しました。今もそれは続いております。
もう1つ畑を販売を決意した理由は2009年からボジョレーでヌーヴォーを作らさせて頂いているのでガメイのワイン造りが場所を変えて続けられるからです。
そして2012年からはソーヴィニヨンブランの王様サンセールの地で醸造する事が決定したからです。
サンセールで右に出る者がいないとされるセバスチャン・リフォーが守っているソーヴィニヨンブランでワインを造れるのです。
何と素晴らしいチャンスでしょう。
ワイン造りは畑に多大な時間をかけます。新しい何かを始めるには、時間配分を変えなくてはなりません。
2011年までは沢山畑で過ごしましたから、2012年は畑の管理を減らし他の事にエネルギーを注ぐというインフラ整備をしたのです。
ボワ・ルカの最後の日本人見習いは2011年に来てくれた4名のスタッフになります。
その4名の1人の遠矢君は今dionyさんのスタッフとして京都で頑張っております。
2003 ~ 2011年まで沢山の日本人スタッフがボワ・ルカで学びました。
初代2003年の太輔君はヴァンクールの社長として頑張っており、買い付けは2005年にスタッフだった村木君が担当しています。
その他きりが無い程の沢山のスタッフが今や日本でワイン関係の仕事に従事しております。
私は結婚が遅かったので実の子供には恵まれませんでしたが、ボワ・ルカで一緒に畑を守った沢山の子供達の母親のような気がします。
神様がそういう仕事を下さったのだと思います。
そして3番目の畑売却を踏み切った理由は、2008年・2009年と自分で納得のいくワインが醸造できたからです。
ヴィンテージにも恵まれました。そして私のワイン人生の中で学び得た方法が証明されました。
そして2010年はそれをもっとマニアックに進める為、ボルドー液散布を辞めました。
さすがにその年はブドウが実をつけず、もっと南の地域でないとこのマニアックな方法は無理だと諭されました。
そして2011年、私の最初に買った畑の最後のヴィンテージの醸造を終え、もう未練がないと自分に言い聞かせました。
コスモジュンのスタッフやお客様が悲しみましたが、一番辛かったのは私です。本音は売りたくなかったです。
でも100%畑を守れなければ、畑を守る資格はありません。私は己の責任を全うできる2haの畑だけ守る道を選択をしました。
色んな噂が流れているようです。私がワイン造りを辞めたとか云々、、、。
しかし面白いもので私がFBを始め、毎日の出来事をupするようになってから、その噂は聞こえなくなりました。
私は人の噂は参考として聞きますが、根本的に直接自分が確認した事しか信じません。
2012~2014年まで収量が少なかったので、私のブドウをレ・ヴァン・コンテに売りました。
この期間のオリヴィエのワインには私の畑のブドウが入っております。
2015年ヴィンテージからまた、ボワ・ルカのワインが発売再開です。
2015年は実はちょっとした問題が起こり、まだフランスで寝かせております。
なので2016年のコーからお届けしますが、是非沢山の方に召し上がって頂きたいです。
ジュリアン・ピノーと同じく数年前にワイン造りを開始したLaurentに、この2016年から醸造所を貸した関係上、ラベル表記がどうしても法的に少し変わりますが、もちろん今回リリースする2016年ヴィンテージも私が醸造したワインです。
2017年は残念ながら2016年の半分の量になりました。
春先に霜で半分やられてしまったからです。どこの地域も大変でした。うちも例外ではありません。
それでも我々生産者はワイン造りを続けて良く所存です。
2017.10 Loireにて 新井順子
(インポーター様資料より)
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